昭和16年頃の御座を伝える
御座風俗素描
 

 上記作品は、今からおよそ70年前の昭和16年に書かれましたが、作者不詳です。文面からは当時小学校に他地区から赴任してきた一先生のものかと推定されますが、確かではありません。一個人による印象記であるということと、内容的にはあくまでも当時を描写したもので現在とはかなり違っていることに留意して読んでいただきたいと思います。
尚、原文は旧仮名遣いでしたので、現代的な用法に変えて掲載しました。
                                         (御座学「勉強会」より)


目次

      
1.概観      
2.天草の口開け
3.海女      
4.海女笛    
5.盂蘭盆    
6.不動堂    
7.石仏     
8.生活     
9.結婚史    

1 概観

 三重県志摩郡御座村−志摩半島の南端御座岬を巡って僅かに英虞湾を覗き込んだ海岸の狭い谷間の一カ所に聚落して人口一千、戸数二百の小漁村がある。
 私がこの村に移住して村人達とも自然親しくなるにつれ、本村民の気風の一風変った、底知れぬ不思議な人間的美しさに心を惹かれて、漸く積極的に深く観察したいという欲望を感じ始めた。
 素材的知見は兎に角、民俗学的知識の欠乏を覚えながらも姑く直接の経験を断片的に無秩序に書き列ねることとした。
 私が先づ感得したのは村の空気の清潔さであった。古風に閑静に、落ち着いて、村落全体の吐く息が何となく清潔に感じられた。空気ばかりでない道路なども実際草一筋なく、掃き清められて、石垣の根やあわいに態と残されたらしい桜草が、あの娘の簪のような桃色の花を翳していた。
 次に心を惹かれたのは、道で会う子供達の眼つきの無邪気な愛らしさであった。日を重ねるに従って住んでみると村人達の生活は極めて健康で、清潔である。男女とも非常によく働くし素朴で快活で、正直で、謙遜で、無邪気で、露骨で、お行儀なしで、人なつこくて、好奇心が強く、そうしてはなはだ無知でもある。
 一口に原始的、本能的、人間的と言ってもよいだろう。一般村民の生活には文化的装飾がない。娘も白粉を用いない。居酒屋もなく、脂粉の女もいない。呑兵衛は八十に近い老爺が一人いるきりだ。酒は産業組合以外では売らない。多量の酒は飲まず、一合の酒を「わしが七勺、嬶が三勺」夫婦で分けて飲んだなどという。
 県下第一の健康村で、先年県の衛生課からわざわざ調査に来たとのこと。結核患者は皆無。一般に壮健で、長寿者が多く、七十歳を超えて一俵の米を担ぐ老爺、海底に潜って天草を取る老婆も二、三に止まらない。彼等は見たところ六十歳くらいにしか見えない。
 花柳病もなく、昨年の徴兵検査には壮丁十名の内九名甲種合格、一名が乙種合格であった。郡内一等の成績だったそうだ。
 清潔なのは精神だけでなく屋内、庭、道路の掃除もよく行き届く。夏冬の衛生掃除なども家具を持ち出して天井までも雑巾で拭う。村中の下水、溝、川を年に数回諜える。これは青年団が引き受け、この日青年達は、以前、村から酒二升を貰い(今は金銭)無料で入浴することが許される。村社の境内などあまりに掃除が届いてかえって趣をそぐくらいだ。
 村民への告示は通常人通りの多い四辻の消防の壁の黒板に白墨で書くことになっている。これに加えて、軍人会や青年団の「団員諸君へ」のものが多い。村民一般、殊に女達への日来の通告は役場の小使いの爺さんが村中をふれて歩く。漁村の常として村人は皆声が高いが、この老爺は七十何才とか言うのに特に声が通る。
 「ほうそう、ほうそう、せん人は、寺ィしいござれようィ」
 最初これを聞いた時、私はわざと「疱瘡」と繰り返すのだと思った。が、そうではなかった。
 「ほうそう、国旗を忘れんごと出さしゃれようィ」 
 ほうそうは即ちラジオの「放送」なのである。
 赴任間もないある日、このラジオ爺さんが一段と声高く村中を放送して歩いた。
 「あすは、天草の口があきますようィ」

2 天草の口開け

 天草の口開けは村の重要な産業的行事の一つである。布海苔、若布、天草等の海藻はすべて充分に成長するまでその採取が禁じられる。
 天草の解禁は四月下旬である。その日は村中の女が総出で、ホラ貝の合図で一斉に海に入るのはとても見事だから見物に行けと、布れの回らぬ先から誰彼に勧められていた。潮の干は八時というので、当日は特に朝起きして七時過ぎに現場へ行った。「にわの浜」と言って外洋面の村境に近い岩浜である。
 海女達はもう海に入る服装(白の肌着に白の腰巻き、白手拭いで髪を包む)で方々に十人くらいずつたき火をかこんでいる。組は大体年齢別にくまれ、十六七の小娘の組から年寄り組は七十五六歳というのまである。この老婆達は丸々と太って頬もつやつやしていた。教えられたままに海中に突き出た大岩の上に上って待っていると、やがて御座よりの浜の海女達が桶を抱えて渚におり始めたと思うと、向こうの岩陰から役人達の小さい姿が黒く現れた。次々に波及する海女達の蠢きは近くのは鳩の群れのように、遠いのは白いありのように見える。
 法螺貝を手に持った漁業組合の老役人が私と並んで岩の上に立った時には東西七八町に亙る磯の浅瀬に腰まで浸って二百人に余る海女達が一列に立ち並んだ。
 役人は左右をきっと見渡して界を口に当てる。合図と同時に一斉に泳ぎだして早くも飛沫を蹴り上げて潜り始める様は、さながら水鳥の群れである。
 若い連中は浅瀬を年寄り組に譲って桶を押してぐんぐん沖へ出る。彼方の岩陰からは数十艘の海女船が漕ぎ出る。これは沖の岩礁の付近で採取するのである。
 私達の岩の下で潜っているのは水中の動作がよく見える。岩の間に上半身を隠し、両手に天草を掴んで浮き上がってくる姿が波にゆられて青白く伸縮する。水面に浮かぶと同時に潮の垂れる天草を桶に投げ入れながら、ヒューッ海女笛を吹く。そこら一面に浮かんだ桶の間に、白い肢体が浮かび出ては潜り、遠い近い海女笛が賑やかに飛び交うのであった。私は岩の上に立って自ら胸の躍るのを覚えた。
 やがて彼女たちが獲物で桶を満たして上がり始めると浜は又あらたに活気を呈する。新しい薪を得た焚き火は盛んに煙をあげる。
 そのそばで肌着を絞る海女達は強く冷やされた体は却って赤く照って若い肌はことに美しい。濡れた髪を捩?りながら沖の友達に「早ょ上がらんと凍えるにィ」と声一杯に叫んでいる娘もある。天草はすぐさま砂の上に広げて乾かされるので浜は見る見る赤黒い氈で蔽われていく。こうして焚き火の側で充分休息し、飲み食いした上でもう二回海へ入るのである。
 「芋を焼いたるに、あすんどりない」と知り合いの海女が言ってくれたが、私達は焚き火の熱気を潜って兎も角も帰ってきた。

3 海女

 海女といえば全村の婦女が悉く海女である。
 まだ学校に行かない童女がすでに小さい桶と潜水眼鏡で海女の真似をして遊ぶ。学校を卒えると直ぐ本式に稽古をする。
 「あの子は体が弱いのでのォ」と言われる娘でさえ三四尋は入る。強いのは二十五尋まで入るという。尤もこれは舟海女で、舟海女というのは舟に乗って普通夫婦で行く。四五貫の鉄の錘(分銅)に縋って海底に入り、いき一杯の作業をして合図をすると、舟の上の男は大急ぎで綱をたぐり上げるのである。
 深所の鮑は大きく数も多いので、この方が獲物は多いのだ。
 これに対して桶海女は命綱の端を桶に結わえて泳いで潜る。浮かぶ時は石の上に直立して片手で強く一掻きすると、すーと上がるという。これは十尋位まで入る。息の長さは一分ないし二分というと普通の呼吸のざっと三十倍で、見ていていて心配なくらいに長い。浮かび出てヒューと海女笛を一吹きして又直に潜る。
 水底では岩角を踏んばったり海草につかまったり、四つ匍うのだそうだ。海草を分けて石を起こし、岩の下に仰向きに匍い込んで鮑を見つけると腰の鑿を抜いてこじ離す。鮑が落ちると左で拾い、右手の鑿を腰に返して直ぐ綱を引くか、水を掻くのだそうである。章魚を捕ることもある。岩角に蹲っている大入道(深所の章魚は大きい)を驚かさないように(驚くとすぐ逃げるそうな)そっとその脚を一本ずつ離してこちらの胸に吸いつかせる。そいつを胸に抱いたまま上がってくる。下手をすると水際で逃がしてしまうことがあるそうだ。
 舟の上の男もなかなか楽でない。炎天に灼かれて綱ばかり手繰っている。女を引き上げてから、また分銅を上げねばならぬ。布を幾枚も合わせて刺した細い帯のようなものを手に巻いているのだが、直に破れてしまう程だ。でも網を握っていると、底の女のはたらきが手に取るようにわかる。アッ石を起こした、岩の下に這入った、貝を捕った、と思うのがとても楽しみである。捕れた時には綱をたぐるにも元気が出る。
 「現金なもので何も獲っとらん時には、ゆっくりゆっくり引かんな、途中であァもう息が切れるがねえと思うことがあるんナ」と、これを(は?)隣家の嫁さんの直話である。
 鮑の口開けは毎年四月一日で温暖な御座でも流石にまだ肌寒い。「別によう、体を焙って」海へ入らねばならない。「燠を水につけるとシュンというじゃろ、あんな音がするんな」とこれも同女の話。
 真夏は二三時間位は平気なのに二十五分より這入れない。上がってくると焚き火にしがみついて顫えながら盛んに喋る。十人いれば十人とも喋るので聞き手は一人もない。何を喋るかというと、どこで、どんな鮑を、どうして捕った、あるいは一つもとれずに夫婦喧嘩をしたというような話である。体が温まると皆、おとなしくなる。「海女の商売もなかなかえらいんナ、息をつめて動いて、冷やしたり、つらい目ばかり見んならん」実際壮健な女も夏中に相当痩せるそうだ。
 だから村に一軒の薬屋の店頭は滋養剤が幅をきかしている。冬から飲んでおくと目に見えて捕り物が違うという。やはり稼ぎの無理からか、老いた海女達には脳病(頭痛持ちのことか?)や神経痛を訴えるものもある。が、一般に長寿者が多く、そしてお産が格別に軽いそうである。
 息の長い海女が必ずしも上手とは限らない。いろいろ複雑な条件があって隋分勘のいる仕事らしい。わが子にもそのコツは伝授できないという。稼ぎのえらいという海女たちに会っていると皆利口なしっかり者である。各々得手があって捕ってくる貝の形や色がそれぞれ違っている。つまり探す場所が違うのだ。ある年老いた海女は御座の海の底は陸よりもよう知っとると言った。
 稼ぎ高は昨年のレコード一日四十円、平均十円は誰でも楽だという。(編者注:当時の1円は現在の1000円から1500円に相当)鮑だけの水揚げで総額四千貫、昨年の相場で二万五千円、女の手一つで家を建て、子供を上の学校へやったというのが幾人もいるとのこと。

4 海女笛

 序でながら海女笛について書いて置こう。
 海女笛は水中で溜めた呼気を水面に浮かぶと同時に激しく吐くとき自然に発する一種の口笛である。下唇を引き、上唇をかぶせて軽く開き舌の根を高くして口腔の上部に息を吹きつける。そうすると呼気が楽だと言う。丸みのある、高い澄んだ音がする。
 あの「えんやらほ」の掛け声と同じく温かい汗の臭いのする労働の歌の趣があって仲々よい。
 相当遠くまで聞こえ、沖で一人潜っている海女の笛など随分もの淋しく聞こえる。
 海女笛は平常の習慣になるらしく、肥料坦桶を山の畠へ運ぶ女など荷を下ろして、ヒューと海女笛を吹く。坂道のかかった老婆の杖を立て腰を伸ばしてヒューと小さく古い習慣の海女笛を吹くのを聞くのもあわれ深く心を惹かれるものでもある。

5 盂蘭盆

 天草採取の次に興味を覚えたのは盂蘭盆の会式であった。魂迎への舟は笹舟に茄子や南瓜の微塵にきざんだのを乗せて波止場から引潮に浮かべて流す。
初盆の家の庭には十字に組んだ竹の端に雪洞型の燈籠を吊す。どの家にも黒く古びた骨に新しい白紙を貼って戒名が書いてある。
 門柱や戸口の柱には精霊の履物なのだろう。二寸ほどの小さい草履が吊してある。当日は寺でせかきが催される。初盆の家々でそれぞれに菓子や餡餅を用意して村中の子供や敬老会(七十歳以上)の老人達に施すのだ。貰いに行かない老人には届けてくる。
 晩は浜の網干場の網や棒を取除いた砂の上で村中の老若男女が集まって会式を行ふ。之がまたまことに美しい見ものである。殊に祭壇がふるっている。日頃、ひじきや天草の干場、網の繕ひ場であり、通路でもある防波堤の上を掃き浄めて筵を敷き、前列には村長初め諸役人が羽織、袴に威儀を正して居並ぶ。その背後の木の繁った高い崖の裾に紙張子の共同の大位牌を据へ中に灯りがともり、灰の代わりに砂を盛った香炉からは線香の煙が朦々と立ちのぼる。この祭壇の下の砂浜に置かれた露天の屋台の上に大太鼓を囲んで二人の「唱へ手」が紋服姿で控へている。この屋台の東西に雨傘を天蓋とした色、形とりどりの切り子燈籠が二十あまり二列に整然と立ち並ぶ。その下には大勢の親類縁者がざわめきあふ中にも静粛の気を保ちつつ黒く地面を埋めている。
 近寄ってみると切り子燈籠は白紙の白を基調に黄、水色、桃色などをもって飾られ長い切紙が尾を垂れて内の灯に透す様は清楚なままに中には艶なほど美しいのである。凡てこの村の新聞屋の隠居の製作といい、仔細に見ると色や形の調和ばかりでなく鋏が非常に鮮やかに切られているのが眼に見えて美しさになっている。
 燈籠の周囲には印籠、財布。煙管、櫛、髪、昔の鏡など古色を帯びた十余り品が吊され、之は男女によって多少の相違がある。
 傘の縁には思い思いの色の布をめぐらして垂れ、布の端には幾つかの文久銭が吊される。燈籠を支えた棒の根もとはまわりの砂を浄く掻きならして円く小石でかこみ、砂には夥しい線香が立ち盛んに煙をあげている。−−私は暗い崖下の道を通って浜の上に立ち忽然としてこの光景に接したとき、むしろ呆然とした。
 美しい燈籠の行列、その朧な光を浴びて青く立ち迷う香煙の裡りにざわめきながらも身も心もあらたに粛然とした押し並んだ千に近い人々。その座席の直ぐうしろは黒く明かりを吸うた静かな夜の海で仄白く渚に寄せる波が爽やかな含みの深い音を間遠に繰返している。この静かな山と淋しい海との間の光と影、色とさざめきとの一廓が私の目には古い伝統の世界に活きた一幅の絵巻物に見えた。 
 式前に人々は用意の重箱や瓢をとり出して燈籠の下で食事を始め僧侶や役人たちにも膳部が供せられる。黒塗の高膳部をコンクリートの上に据えて食べるのである。式は僧侶の読経と村長の焼香で始まる。次いで屋台の太鼓を合図に東西の燈籠が縁者たちに捧げられて順次に屋台の周囲をめぐり始める。燈籠のあとに位牌が従ふ。位牌を捧げ持つ者は皆若い女性である。白装束に縁に垂れのついた菅笠を被り下げ髪の根元を白紙で包み上衣の片袖を脱ぎ(恐らく切髪と袈裟の徴象でもあろう)一同粛々と歩を運ぶ。
 屋台の上の唱へ手は声を張り上げて
 「ヒャーヒィトルロンロ……」何とやら意味の不明な調(ことば) を唱えながら間を切って太鼓を打つ。その合図に縁者たちは「ひとはあまよの月なるぞ
…」云々の歌を唱和する。これは慥に眼に心に涙を湛えた。しめやかな音調である。
 以前は実際、縁者たちが声を立てて泣き、屋台の唱へ手も壇上の役人たちも貰い泣きしたという。
 燈籠は三周ののち祭壇の下に押し並ぶ。読経があり、少年が奉書を眼高らかに展べ持って皆の戒名を読み上げ、弥陀の恩徳に縋(すが)って精霊達を西方浄土に送る由を述べる。読み終りの声を高く張り、勢よく,紙を引き破るのは禅家の引導の要領である。
 之を「念仏を貰う」という。昨年は燈籠が多かったためにこの式事が二回に分けられた。燈籠の動き始めてから念仏を貰い終るまで壇上では村長がひとり村民を代表して瞑目合掌する。その意気ごんだ厳粛振は殆ど笑ひを誘ふばかりだが、やはり笑いきれないものがある。この真面目さは傍に佇む子供達まで行き渡っているのが見る目に快く感じられる。
 会式のあとは屋台のまはりで盆踊りが催される。お婆さんも分別盛りの男子も、小さい子供も踊る。動きの静かな割合に上品な踊である。事変前はこの夜の踊がとても賑わったそうだ。賑かに踊ってもらうほど「亡者の足が軽くなる」というので遺族達が酒樽の鏡をぬき、女達のためには砂糖水を満たして饗応した。
 村人は思い思いに仮装して夜明けまで踊り通す。その趣向を凝した仮装が呼び物で一般投票によって等級をきめ当選者には反物などの賞品などを贈ったという。誰も皆踊が好きで今年は、
 「盆には踊らんことにゃ沖へ出て手が動かんわい」(原文ママ)
 盆の会式に於ける村人達の真面目さは死に対する真面目さといふよりも寧の信仰に対する真面目である。
 死にたいする観念は至極単純で自然である。若者の死、一家にとっての大切な人の死はひどく悲しむが老人の死はさほどに嘆かない。
「もう要らん人間じゃでのォ」 「却ってお目出度い方じゃ」などと云う。これは打算からではない。彼等には働きがそのまま生活なのである。働けなくなった者、生活を終った者の死をいたく悲しまないというまでである。
 信仰も寺や僧侶に対する信仰ではない。佛に対する信仰である。

6 不動堂

 この村で最も深く信仰されているのは不動堂だ。
 これは村の東南隅に蟠る低い丘陵を超えた幽遐な谷間にある。この一廓は幅広い桜並木の道路、梅、桜、躑躅に飾られた芝生の斜面、手入れの届いた広場、古い樹木と岩と水との境内、さながら清閑な公園である。
 本堂の裏の水の滴る岸壁の面や、そこらの岩間に散在する人頭大の丸石の表に弘法大師が爪で彫ったと言い伝える梵字が一字ずつ刻まれてある。
 本尊も同じく石に刻んだ仏像とのことだが秘仏なので見た者がない。爪切不動と呼ばれるのもこれによるのである。
 本堂の脇から高い石段を登ると、小さい大師堂がある。
その濡れ縁にはいずれ熱心な祈願者の所作なのであろう、般若心経を一字ずつ小石に記したのが沢山並べてある。朝は五時、夕方は六時、七時頃散歩に行くならば必ず数人の衣服をあらためて小さい袋を大事に提げた参拝人に出逢う。袋の中には賽銭と洗米が入っている。彼らはこうして朝夕かかさず氏神の社と不動堂に参拝して戦地にある子息や兄弟の無事を祈るのである。
 村人は他郷に出ても「不動さん」の信仰を捨てない。家に近いある男の話だが、水兵時代に酒でしくじり、上官の前に、その場の機転で不動さんを証人として禁酒を誓った。そのあと、盃を手にして口に運ぼうとしたが手が動かない。ふと不動さんを思いだしたからだ。嘘にも一旦誓ったと思うと恐ろしく遂に禁酒を誓行したという。
 「罰をあて、眼でも潰してよこすと、面倒じゃ」と思ったというのである。 先年本堂の屋根替えをした折、ある不信心な横着者が、わざと棟の上で放屁をして自分の大胆を誇示したところ、中食に家に戻って厠に上がるなり激しい腹痛と下痢で腰が立たなくなった。驚いた母親はお詫びに行って貰ったら早速平癒した。「わしも不動さんには叶わんわい」とその乱暴者もシャッポを脱いだという話。
 また掃除に雇われた隣村の人夫や境内の溝にうっかり小用をして、その夜から大熱を発し、お詫びの幟を上げて赦して貰ったという話もある。

7 石仏

 次に村人の信仰を聚めているのは石仏である。
 波止場の袂から西へ海岸伝いに岩を切り落とした石垣を築き添えて拓いた狭い石の道を踏み、突端の新しい石の鳥居を潜ると、直ぐ目の前の大岩の腰に幟や石碑が立っているのが見える。
 私は最初その山手の大岩が仏なのかと思ったが、そうではなかった。岩の裾にコンクリートで平らな台を作り台の端に石の水盤を据え、低い石柱に賽銭箱が掛けてある。そこから三尺とは離れぬ、水中に睡蓮型の石の浮き彫りにした、地蔵菩薩の尊像が二基立っている。それが石仏なのである。その尊像の直ぐ後の小さい岩にセメントで注連縄が模造してある。その岩を仏だという人もある。昔はその後に更に大きな岩があったが、近村の漁師がそれとは知らず、打ち割って舟で運び屋敷の周りの石垣を築いた。その一家は仏罰を蒙って死に絶えたが、その岩が本来石仏だったのだ、という人もある。
 成程その跡らしい低い岩が水底に横たわっている。又そのあたりに起伏している岩全体が仏なのだという人もある。いささか心細い話だが、それにも拘わらず、村人たちは、いつも潮時を見計らっては燻る線香を手にして参詣する。この仏は気安いらしく、誰も着物を着換えもしない。野良着のまま頬かぶりをしたお婆さんなども見うける。そこらに砂を盛って線香を立て青海苔の生えたコンクリートの上に跪坐して熱心に祈願をこめている。霊験もあらたかで、殊に病気をよく癒してもらえるそうである。
 最近も村長が明らかに奇跡を体験したといって石の鳥居を寄進した。純真正直の信仰に対しては今日もなお奇跡の顕れるものらしい。―
 私は時々散歩に行くが人々の供物を見るのが楽しみである。ある日は小餅が幾重ねと水盤の縁や賽銭箱の上にまで載せてあったり、芋の切り干しを黒砂糖で煮たのが欠けた皿に入れて置かれていたり、ある時は石柱の頂きに夏蜜柑が載せてあったりすることがある。子供のままごとを見るように愛らしささえ感じられる。
 一度上げ潮が来れば一切が洗い流されるのが清潔でよい。特に一棟の堂宇もなく、俗気の漂う装飾など全然なく、海と空との間に、しかも、それと判明しない一個の岩の横たわるだけなのも、私には、こよなく好ましい。
 ある日の引き潮の時、濡れた砂に降り立って岩の頭を撫でてみたが思いなしか、掌に泌々と楽しい温か味を感じた。
 長い歳月に亘る多くの人々の深い熱烈な思いはやはり物に宿って一つの超越的な生命となるのではあるまいか。皆の人と一様に心から拝することが出来るなら私もこの岩に拝したいと思った。

8 生活

 次に御座人の生活の一般的な観察をしたい。
 総じてこの村の人々は非常に自由に振る舞う。隠居の多いのもその現れの一つである。少し故障が生ずると直ぐに別居する。嫁姑仲が悪いとてその姑が一人別居しいるのがある。親戚が寄ってそのように「世話した」のだそうである。理論は簡単明瞭である。「仲が悪いなら別れたらええわさ。」兄弟顔を合わせても、物を言わんのがある。喧嘩を続けているのではなく、むしろ喧嘩を避けるために、ものを言わないのである。当人もなれて平気なら、傍も大して気にしない。又深く相手を憎むことをせず、殊に親疎によって人に対する判断を変えないのが感心である。
 「わしとは悪いが、正直な心の綺麗な男じゃわい」等というが本人は矢張り不幸を感ずるらしく自分たちの不和を例にあげて子供らには特に兄弟仲よくしろ、と教えるとのこと。それにも拘わらず当人同士和解することを知らず他からも仲裁しょうとしない。「気が合わんのに仲ようせいと言うても無理じゃ」その代わり気が合えば他人でも親子よりも睦まじくする。
 毎晩気の合った仲間が一軒の家に集まって相親しむという風である。村人は一般に親密で自他の隔てが少ない。物なども無造作にやり取りする。値段のきまった米や麦の外は受け取らない。一体に金銭に淡泊で、しかも几帳面である。寄附なども気前よく出す。そして集めに廻らなくとも自分から持って来る。
 税金も数十年来滞納ということがなく、役場の壁には幾枚となくその表彰状が掛かっている。又吉事凶事の入費にも糸目をつけず、そのため直に借金をする。
 借金は一定の利子を添えて必ず返済する。利子も村中一定している。余分の金が残ると「お前んところは要らんかの」と持って歩く。返済に行くと「まだ要らんで借っといておくれ」と言うそうである。

9 結婚史

 最後に男女の関係について略述しよう。
 この村の男女の関係は一口に言えば非常に自由で自然で健康である。この性質は古い時代に遡るほど増すようだ。私は色々の人に需めて聞いてみたが、ある一青年を除いて、どのような露骨な話にも決して醜悪の感銘を受けなかった。所謂「よばい」の話であるが、三四十年前には「寄り屋」といってある特定の家々に娘達が数人ずつ思い思いに泊まりに行った。そこに数人の若衆が毎晩遊びに行く。菓子など買って行って歓談する間に自然と気が合った同志が親密になる。
 しかし「寄り屋」では単に雑魚寝を楽しむだけで、更にインニヒ(編者注:言語不明、intimateのことか?)な関係のためには銘々他の場所を探す。からしてそのまま単純にあるいは多少の葛藤や流動の後、至極無理のない結婚生活にはいるのであった。
 次の時代は雑婚時代である。更に下って四十歳位の男の話によれば、二十年前には稍独占的傾向が生じ始めたらしい。村中の娘がそれぞれに色や布地の異なった腰紐を結び「よばい」に行った青年は其の紐を貰って帰って翌日から公然とそれを腰に巻いて娘の親の前をも憚らなかった。すると他の青年は遠慮しなければならないのである。つまり暗黙の披露なのである。がその間にインチキなども行われ多少の駆け引きが要り、青年達の間に競争心を刺激した。従って親達も漸く気を遣い確実な関係を見定めて結婚を勧めたそうである。
 更に時代が下って三十歳の青年の話を聞くと「よばい」は最早「婚ひ」(まま)でなく「夜這い」に堕落し、悪戯気が加わって不真面目になっている。それだけに話も、みだらな醜悪な感じが伴うのである。警察の取り締まりが次第に厳しく、電灯が点って屋内も道路も明るくなり青年達も近代的教育の結果「真面目」になり「意気地なし」になったからだという。
 今の娘は親たちの時代の「よばい」の事実さえ恥辱として否定した風である。それほどまでに固い「貞操観念」を養い得ている。――御座の女たちは皆屈託なく幸福そうに思える。みんな夫婦仲がよい。そして娘時代に引き換え結婚後は非常に操が固い。姦通沙汰など全く耳にしない。概して男が女を大事にし、互いに束縛せず、めいめい気楽に振る舞っている。そして夫婦の気性がよく似て、殆どそっくりなのが多い。女は働きがあり、健康な恋愛が行われてきたからだと思われる。


 TOPへ 「御座」あれこれ・目次へ